「JUNONボーイコンテストまた落ちた・・・。書類ちゃんと届いてんのかなぁ・・・。」
なんてふざけた言い訳を言っていた福岡県飯塚市出身の15歳の津野は、芸能人になりたくて たまらない夢見る青年だった。
何度もJUNONボーイコンテストを受け、高校からは芸能スクールと公立高校のダブルスクールで数々のオーディションを受ける。が、、、ALL不合格。学校ではそこそこ人気者だったが、芸能に関しては
ガチで さえない高校生だった。卒業を間近に迎えた津野は、
とりあえずエンタメ業界に携わるなら東京でしょ?!ということで18歳で世田谷の日本大学へ入学。
その後、遊びとバイトに明け暮れた4年間を過ごした。表舞台に立つことを夢に見つつ、まずは裏方から頑張ってみるか!ということで、TV局のディレクターを目指し就職活動を続けるも 全キー局に不採用通知を頂く。
かろうじて、クリークアンドリバー社という番組制作会社1社に内定は頂いたものの、芸能人への憧れを捨てきれず、よりタレントに近いところで仕事をする為、
制作会社の内定を蹴って、日大卒業後に芸能事務所オスカープロモーション入社。そこでマネージャーを3年やった。担当は米倉涼子さん。米さんと過ごした3年間は宝物だ。23歳の自分では到底見ることのできない景色を沢山、驚くほど沢山見せて頂いた。この場を借りて再度お礼を言わせて頂こう「米さん本当に有難う御座います。」今でも一生の宝物です。
オスカー退社後は米さんのメイク中嶋竜司さんの紹介でstylist中川原 寛さんの元で修行。
助手3.5年を経て独立し、stylist14年目である。
今やstylist業界の人は、誰も「元マネージャー」と言わなくなった。
独立したての頃はstylistなんて名ばかりで仕事なんて月に2~3本。やる気はあるのに仕事には恵まれず
上海エクスプレスという中華料理の宅配業のアルバイトをしながら生計を立てた。
勿論、月のほとんどの時間は上海エクスプレス。家にいると鬱になりそうで、空いた時間はすべてバイトを入れたもんだ。
そんなこんなでstylist2年目 2つの転機が訪れる、
1つは師匠のやっていた雑誌LEONの元編集者森口さんからの一報だった。「真吾、俺が今担当してる雑誌に若手俳優さん出るからスタイリングやってよ。」勿論2つ返事でOK。スケジュールはガラガラである。
「ワイルドな感じで!」みたいなオーダーだったかな?!レザーのブルゾンやら、男らしいアウターやらをこれでもかというほど揃えた。なぜなら時間は沢山あったのだ。
撮影当日 その背の高い若手俳優さんは、大変気さくに「全部メチャクチャ格好いいですね。迷います。」と満面の笑みで喜びの声をかけてくれた stylist冥利に尽きる。う~ん最高♡
そんな雰囲気で撮影は超順調に終了。帰り際にマネージャーの中村さんから
「また別の機会でも津野さんにお願いできますか?」と言われた。心の底から嬉しかった。
その俳優さんの名前は鈴木亮平。今や時の人である。
さて、もう1つの転機について話そう・・・。
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